⑩シングルマザーに育てられ~母の入院

母の入院

前回の帰省から1年後の秋。

僕は、ラーメン店にいた。

同じ島の出身で親しくしていた友人が開いた店。

その友人は僕より10才上だったが、いろいろ世話になっていたので恩返しの思いもあり、その店で働いていた。

その日は、いつもと変わらずランチの準備にとりかかろうとしていた時だった。

僕の携帯が鳴った。

久しぶりの姉からの電話だった。

「おかあちゃんが入院して意識不明みたい・・」



母の容態が急に悪くなり、入院したとのことだった。

友人に理由を話し、母の入院した病院へ。
僕はその日のうちにチケットを買い、次の日の朝7:40発のフライト便で島へ向かった。


10:40頃到着。空港に姉と義姉の2人が車で迎えにきてくれ、その足で病院へと急いだ。

病院の3F、観察室にて意識不明の母はベッドに横たわっていた。

母の病名は、
『劇症肝炎』・・B型肝炎ウイルスを原因とする急性肝炎からの発生率1~2%、死亡率70~80%
とのことだった。

意識は完全に無く、表情は苦しそうにしているのがみえた。


一緒に住んでいる、おじさん(彼氏)の話しでは、母は何日か前から風邪のような症状が続いていたらしい。そして急に意識がなくなったとのことだった。


病院には、兄や親戚(母の兄弟たち)の人も何人か来ていた。

何人かにあいさつしたあと、
ひとまず僕と兄は母の住んでいるアパートへ行くことにした。


その時点で、二人ともハッキリとは話さなかったが、母はもう助からないということを感じていた。

届いた荷物

なぜか頭の中は冷静だった。

母が亡くなったあと、アパートをすぐに引き払わないといけない。
そのままだと賃料が発生する早く退去しなければいけない。
全ての荷物を処分するのには人手とお金がかかる。
僕は島には長くは滞在できない。
兄一人でアパートの荷物を処分するのは大変だ。
なので、僕が滞在している間に荷物を全て処分してアパートを退去しなければいけない。

そんな暗黙の了解のもと、黙々と荷物の処分に取り組んだ。
悲しんでいる余裕はなかった。
とは言え、荷物を整理して処分する労作業に没頭することで、気持ちを紛らわすことができていたのかも知れない。

母のアパートには、未開封の通販の品物が置いてあった。母が頼んだ物が届いていた。

注文したその荷物が入院中に届いたことも知らず。
母は生死をさまよっている。

その荷物はそのまま開封せず返品することにした。

容態の悪化

その日の夜、母の容態が悪化した。

処置が終わった医師から説明があった。

「呼吸が不安定になってきている、これから機械で動かすかも知れません・・」


そしてすぐにそうなった。


その日、僕と兄は病院が廊下に設置してくれた簡易ベッドで就寝した。

次の日の朝6時頃、起床。
その後午前中はずっと病院の廊下にただ座っていた。

母の容体は安定していた。
おじさんも仕事の合間に病院に様子を見にきていた。

昼頃、姉と義姉が来て交代。
僕と兄は母のアパートへ向かった。
片付けの続きをした。

夕方5時頃、兄の家でシャワーをしたあと、すぐに病院へ戻った。

廊下には母の兄弟とその家族が昨日と同じように座っていた。



夜7時頃、主治医より容体の説明があった。

「下り坂・・ゆっくりいくか、ガクンといくか・・明日は検査してみます・・」

説明のあと、ラーメン店の友人に電話をして状況を伝えた。
そのときの僕は、ぼろぼろな状態だったのだろう。
泣くな、と何度も電話越しに言われ続けた。

深夜0時、その日も病院の廊下に設置した簡易ベッドで就寝した。