「履いている靴を見れば、その人がどういう人か分かる」
いつだったか母は、そう話していたことがあった。
島の小さな靴屋で、20年以上地道に働いて生きた母。
その経験から、人がどんな靴を履いているかで、その人がどういう人なのかを理解することができたらしい。
正直、どんな風に理解できるのかは、詳しく聞いたことがなかったので分からないが、おそらく、靴の履き方、または靴の状態などを見て、ちゃんとした人なのか、不真面目な人なのか、そんな感じのことを理解していたんだと思う。
「靴だけは、ちゃんとしたのを履いたほうがいいよ」
決して教訓じみたことを言わない母が、唯一、教えてくれたことだった。
僕は今でも、その教えを守って、ちゃんとした靴を履くように心がけている。
高校卒業後すぐに島を出ることになった僕は、これから経験する知らない土地での生活に大きな不安を感じていた。島以外の世界を知らず、物事を狭い見方しか出来ない18才の田舎者は、フライトの時間ギリギリに空港に到着した。
空港には何人かの友人が見送りに来てくれたが、僕が到着するのが遅くなり、その友人達と、ゆっくりお別れすることも出来ず、「ありがとう」と「バイバイ」だけをして、急いで搭乗した。
そうして僕は、18年間過ごした島を出た。
高校を卒業すると、多くの人が島を出る。
もちろん島に残る人も居るが、その人達は、家業をしたり、親戚や知人の紹介で働いたりと、進学はせずにすぐに仕事をすることを選んだ人がほとんどだ。
新聞奨学制度を利用することになった僕は、上京後すぐに都内の県境近くの新聞販売店に配属された。
そしてすぐに新聞配達を開始した。
バブルがはじけた直後の都会の街中を、新聞を抱えて走り回った。
慣れない言葉での会話、島とは違う常識、経験したことのない寒さ、ろくに仕事をしたこともない世間知らずの僕は、なんと一ヶ月で音を上げてしまった。
公衆電話から母に、新聞配達を辞めたいと、泣き言の電話を何回かした。
今にして思えば、なんとも情けない若造だったと思う。
そのときの僕は、
とにかく話す相手もなく、一人ぼっちの寂しさと、異国に来たような都会生活に耐えられなくなっていたんだと思う。
そんな僕を心配した母は、いろいろ走り回ってお金を工面してくれた。
新聞奨学制度を辞めるには、学費も含め、かかったお金を全額支払わなければならなかった。
結局僕は新聞店を辞めることになった。母が現金書留で返済金を販売店に送ってくれたからだ。
母に迷惑をかけてしまったことで、さすがに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
しかし、現状の苦しい状況を抜けられることへの安堵感もあった。
母は、この時に借りたお金について、その後、一度も口に出したことはなかった。
新聞奨学生を辞めたあと、僕は島には戻らず、先に上京していた高校の部活の先輩や、上京してきていた同級生を頼って、泊めてもらったりしながら、半年ほどバイトをして過ごした。
しかし、たいして稼ぐことも出来ず、お金も貯まらないこともあって、結局、島に帰ることにした。
島に戻った僕は、母に世話になりながら、半年くらい短期の仕事をしたりして過ごした。
その間、当時お付き合いしていた彼女や、島に残っていた友人達とも遊んだ。
遊びは楽しかったが、定職につかずブラブラしている自分に、恥ずかしい気持ちもあったのか、気持ちは晴れない毎日だった。
そうこうしているうちに、自分の居場所が島には無いことを感じるようになっていた。
もう一度、上京しようかな・・
進学にも失敗し、就職することもせず、しっかりとした人生設計のない生き方しかできていない自分を、母はただ何も言わず見守ってくれた。
いつまでも甘えるわけにはいかないだろう。
そして、高校卒業から、一年後の春、僕は、
再び島を出ることにした。