昨日まで右車線を走っていた車が、今日からは左車線を走るようになる。
そんな変動の時期に母は兄と僕を連れて本島から、また島へと戻ってきた。理由はわからない。ただそれから、島での僕たち家族の新たな生活が始まった。
母に抱きかかえられ、優しく畳の上に置かれた記憶がある。母と兄と僕の3人の島での生活が始まった頃の一場面だと思う。
母はクリーニング店の小さな支店を一人で任され働いていた。当時は固定電話の普及率も低く、店前に設置された公衆電話(ベルが鳴ると出ていた)や、店内に設置した無線機で本店と連絡を取り合っていた姿を今でも覚えている。
幼い僕を自転車の後ろに乗せて走り、保育所に預けた後クリーニング店に戻り、仕事に励み、仕事が終わると小学校低学年だった兄と僕の世話をする、そんな忙しい生活に母は一生懸命だった。
多分、5歳頃だろうか。僕は病気になった。腎臓の病気だったらしい。血尿が出ていたのは覚えている。入院も長かった気がするが、退院後は保育所には行けなかった。おそらく長い入院が原因で保育所の手続きをすることが出来なくなってしまったのだろう。
母は僕を、毎日クリーニング店に連れて行き、面倒をみながら仕事をしていた。
僕はそのクリニーング店で毎日遊んだ。近所の子ども達と三輪車で競争した思い出もある。
とにかく三輪車は大好きだった。一人の時もよく乗り回して遊んでいた。
確かクリーニング店の裏の空き地で走っていた時だったか、三輪車の前輪と後輪をつなぐ本体のフレームが折れてしまった。母に直してほしいと頼んだところ、「修理工場で直してもらうからね」と言ったので、店から家への帰り道に板金を扱う工場の前を通るたびに、母に「ここで直して」と何回かお願いしたが、結局直してもらうことは無く三輪車は廃棄処分となった…
僕が風邪をひいたある日、母は仕事を休んだ。
看病してくれたのだが、どうゆう訳だか、その休んだことを理由にクリーニング店の社長から解雇されてしまった。
今にしてみればひどい話なのだが、とにかく、それから母は職を探し、その後20年以上勤めることになる靴屋の店員となった。
靴屋の仕事に出かける母。
クリーニング店と違い靴屋には僕を連れていくことは出来ない。僕は5歳にして、毎日一人、家で留守番をすることになった。
留守番中は、アパートの隣の子と遊んだり、家にあるマンガを読んだりしながら過ごしていた。母はお昼休みのご飯の時間には帰宅して食べさせてくれた。
あの頃は普通だと思っていたが、今、自分が子どもを持つ身になって思うのは、5才の子に1人でお留守番をさせることは、かなり危うい行為だと感じる。しかし、そんな大雑把な子育ては、当時は珍しくなかったのかも知れない・・
母は当時30代前半。まだ若かった。母には彼氏が居た。
その彼氏のことを ”おじさん” と僕と兄は呼んでいた。
おじさんは家に寝泊まりすることもあった。幼い自分には最初、その存在を理解することが出来ず「パパ」と呼んだ時は笑われてしまったが・・
その後「おじさん」という人物が自然と家の中で存在するようになっていった。