「寝るのが一番幸せだ」
そう言って、母はよく布団に入った。一日中立ち仕事をし、帰宅後に子ども達にご飯をたべさせ、全ての事が終わってから眠りにつく。それが、母がひと息つける唯一の時間だったのだろう。
終戦の年、母は生まれた。当時の島は食料に乏しく、一部の島民はソテツ(毒がある)などを食べて飢えをしのぐこともあったようだ。また、マラリアに罹患して亡くなる方も多かったと聞く。
母は、ある程度裕福な一家で育った。
あまり多くは話してくれなかったが、小さい頃にケガをした際、父親に馬に乗せてもらって移動した思い出を、懐かしそうに教えてくれたこともあった。
戦後の島で母は青春時代を過ごした。当時、真知子巻きという流行のスタイルがあったらしいが、その真知子巻きをした若い頃の母の写真を見たことがある。
そして米軍統治下の時代の中で、母は成長し大人になり結婚をした。
子どもを2人授かった頃の1972年、島は日本本土へ復帰する。法廷通過がドルから円へと変わっていった。
そして3人目の僕がお腹にいる時に、父と離婚をして家を出ることになった。
母は2人の子どもとお腹の子を抱えて、シングルマザーとなって生きていく道を選んだのだ。
母がなぜ離婚することになったのか詳しいことはわからない。ただ兄と姉は少し事情をしっているようだ。
「相手の母親と関係がよくなかったらしい」と、姉が少し教えてくれたことがある。
その後、シングルマザーとなった母は、家計が困窮していたのだろう。姉を祖母に預け、育ててもらうことにした。子どもを一人預けて育ててもらうというのは、現在、子どもを持つ僕としては考えられない行動だが、やはり生活は苦しかったんだと思う。母が当時の思いを話してくれることはなかったが、おそらく断腸の思いだったのだろうと想像する。
祖母に姉を預けた後、母は身重のまま幼い兄を連れて島を出た。
400キロ離れた本島へ渡り新生活を築こうと考えたみたいだ。とは言え、やはり生活は苦しかった。当時、身重のままでは、思うような仕事に就くことも出来ず、少しでも負担を軽くしようと、思い余った母は妊娠中絶をしようと病院を受診した・・
しかし、すでに21週目を過ぎていたからなのか詳細はわからないが、病院からは中絶を断られた。
そうして、中絶できないことを知った母は、その後お腹の子を産み育てていく決意をした。そして僕が誕生した。何週間か時期がずれていたら、僕はこの世には生まれてこなかったのだろう。
この中絶未遂のエピソードは、昔、兄から聞いた。兄はおそらく親戚の誰かから聞いたんだと思う。ちなみに僕の兄は統合失調症という精神疾患を患っている。この病気は非常にやっかいで、幼少期の僕は兄から精神的なダメージをたくさん受けた。兄から、暴力にあったり脅されたり、暴言をはかれたりの毎日の連続だった。しかし、兄のことを恨む気持ちは今は無い。いつか機会があれば兄のことも話せればと思う。
母の話に戻ろう。
僕が生まれたあとは、母は、同じく本島に渡っていた妹と一緒に住んでいたようだ。二人で、商店で使う紙袋を作って生計を立てていたらしい。
母は紙袋を作るかたわら、僕に哺乳瓶でミルクを飲ませ育てていた。ある日、飲ませたはずの哺乳瓶のミルクが減っていなかった。何回かそんなことがあり母が哺乳瓶を調べると、先が詰まって飲めていなかったらしい。自分ながらに、かわいそうな赤ちゃんだったなと思う・・
母が語ってくれた数すくないエピソードのひとつだ。